今日はいじめについてお話をします。
校長先生は、小学生4年生の時、クラスのみんなからいじめを受けたことがありました。ある日を境に、クラスのみんなが誰もお話をしてくれなくなりました。思えば、はじめは、いつも一緒に遊んでいた友達が私を避けるようになっただけだったのですが、すぐにクラスのだれもかれもが私をこれ見よがしに避けるようになりました。このことがつらくて、悔しくて、学校を休んでしまったことがありました。小学校4年生の私は、家の自分の部屋で、友達の顔を描いた紙を壁の高いところに貼り付けて並べると、それにスーパーボールをずっと投げ続けました。でもボールはなかなか当たりません。それでも何度か連続して当たるまで投げ続けていました。きっと何時間もずっとそれを続けていたのでしょう。そのことに気づいた私のお母さんが慌てて抱きしめてくれました。
「あの人には自分にとって嫌なところがあるから、嫌なことをしてもよい」ということは、人として絶対に許されることではありません。例えば、「あの人はズケズケとものを言うから仲間はずれにする」というのは、その方法が間違っていると考えます。そうではなく、もっと優しく、上手い方法が必ずあるはずだという信念のもと、考えることが大切だと思います。一人で考えても、いい方法が浮かばないときには、信頼する誰かと相談して考えるのです。そこから生まれるものは、嫌がらせやいじめではなく、優しさと自分の成長です。
いじめには、10人中8人の、これは30人であれば24人の「傍観者」がいると言われます。傍観者というのは、「いじめに気付いていながら見て見ぬふりをする人」のことです。日本では、この傍観者が世界の国々に比べて多いと言われています。しかし、いじめに巻き込まれてしまうのが怖いという気持ちは、だれにも芽生えるものです。本当は「見ぬふり」などしたくないと思う人も多くいるはずです。
そのいじめの傍観者(見て見ぬふりをする人)の10人のうち7・8人がいじめっ子の方につき、10人のうち2・3人がいじめを受けた人につくと言われます。そして、この見て見ぬふりをしてしまう傍観者の10人のうち8人が、いじめを嫌だと感じているということも分かっています。さらに、傍観者の10人のうち1人か2人がいじめを止めようと行動を起こしたところ、いじめの半分以上が数秒以内に止まったと言われています。教室の中で先生がいじめの現場にいたケースは、10個のいじめのうちのわずか1つと、先生が見つけにくいことも言われています。
校長先生は、小学校4年生の時にいじめを受けたことをお話ししました。でも、白状すると、小学校5年生の時には、友達をいじめることもしてしまいました。はじめはクラスの中の傍観者だったのですが、そこで、正しい行動を起こすことができずに、一緒になって友達を傷つけてしまいました。あれから40年がたちますが、いじめを受けた時のこと、いじめをしてしまった時のことは、今でもずっと心の中から消えないでいます。だからいじめは許されないのです。
いじめは、それを受けた相手が「心やからだに苦しさや痛みを感じるもの」ですから、人はだれもが知らず知らずのうちに人を傷つけていることがあると思います。大切なのは、人が人を傷つけようとする心が芽生えたことに気づいたとき、また、人が人を傷つける様子に気づいたとき、正しい行動を起こすことができるかどうかです。
人はあやまちをします。どんな人もあやまちをします。大人も子どもも、世の中からえらいと言われる人も。でも、あやまちは人を決めません。あやまちの後が人を決めるのです。
蟹江小学校の皆さんが、春風のような穏やかな心で過ごすことができるよう祈っています。